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急がばデジタル、フィルムはゆとり




 1月11日。ニコンがフィルムカメラ製品のラインアップ見直しを発表した。そして、それを追うように、19日、コニカミノルタがカメラ事業とフォト事業の終了を発表した。

●写真の定義

 ニコンとコニカミノルタでは、発表の内容は大きく異なり、同列に並べて比べるのはどうかと思うのだが、やはり、ひとつの時代の終焉を象徴しているという点で、2006年という年は大きな節目として語り継がれることになるだろう。

 その一方で、1月19日、富士写真フイルムが「写真事業への取り組みについて」なる声明を発表、「銀塩写真がデジタルに勝る優位さもあり、写真の原点ともいえる」と言い切り、「銀塩写真を中心とした感材写真事業を継続し、更なる写真文化の発展を目指すとともに、写真をご愛顧いただけるお客様、ご販売店様の支援を今後とも続けてまいる所存」である旨のお知らせを掲載した。

 また、コダックも、「今後のフィルム写真事業コダック社の取り組みについて」と題したお知らせをウェブサイトに掲載、「引き続き、市場に需要がある限り、銀塩フィルム及び印画紙を製造・提供」していくことを明らかにした。

 興味深いのは富士もコダックも「写真」の一形態としてフィルム写真をとらえている点だ。両社にとってはデジタルカメラでキャプチャした画像も写真であるということだ。両者は似て非なるものだが、もし、同じものだと認識されてしまうと、いつかは、どちらかがどちらかを駆逐する。

 そもそも、ぼくらが日常目にする写真は、印画紙に銀塩プリントされたものよりも、圧倒的に印刷物になったものの方が多い。雑誌にせよ、新聞にせよ、豪華写真集にせよ、印刷物ということは、そこには、必ずデジタル化の際のスキャン処理が介在する。また、フィルムカメラで撮影したフィルムを街角のDPE店に出しても、デジタルミニラボシステムによって、現像後のフィルムがスキャンされ、レーザー露光ののちにプリントされる。だから、今の時代、デジタル処理の介在しない写真を目にすることは、ほとんどなくなっているといえるだろう。オリジナルがフィルムでも、その出力の過程では、ほぼ例外なくデジタル処理がなされているわけだ。そういう意味では、写真の定義は、かなり曖昧なものになりつつある。広義の写真と狭義の写真といった但し書きが必要なくらいだ。

●フィルムを使うゆとり

 個人的には仕事でフィルムを使うことはほぼゼロになった。職業柄、イベントや記者発表会場などで撮影する機会は少なくないが、そういうときにはまちがいなくデジカメを使う。気合いの入りようによって道具はコンパクトデジカメだったり、デジタル一眼レフだったりするのだが、こうした現場にフィルムカメラを持ち込むことはない。

 その一方で、年に数十本程度だが、フィルムも使っている。愛用しているのはコダックのTRI-Xで、ISO400のフィルムをISO200の設定で露光し、-1減感指定で現像を依頼する。今、ぼくの使っている店では135のモノクロフィルム1本を250円で現像処理してくれるが、減感を指示すると料金は2倍になる。でも、このフィルムをメーカーの指定通り、ISO400相当で使うと、ちょっとコントラストがきつすぎるように感じ、この処理に落ち着いた。たいしたことではないのだが、ここに落ち着くまでには、いろいろ試行錯誤した。

 フィルムカメラはフィルムを変えるだけで、まったく性格の違う結果が得られるのもおもしろい。常用フィルムはTRI-Xでも、しっとりとした日本の風情を表現したいと思ったときには富士フィルムのACROSを使ったりすることもあるし、まれに、カラーを撮りたいと思えば、コダクロームを使う。

 もっとも、現像からあがってきたフィルムを、暗室にこもって自前で引き伸ばすわけではない。結局は、フィルムスキャナでデジタル化し、ディスプレイで楽しんだり、インクジェットプリンタで出力したりするのだ。できることなら、現像も引き伸ばしも自分でやりたいところだが、機材の設置場所や薬液の管理、破棄のことを考えると、ちょっと手が出ない。それでも、フィルムを使うときには、自分の中にある種のゆとりを感じる。ここは不思議なところだ。

●デジタル化が加速させるもの、そして失わせるもの

 デジタル化を介在しないものを目にするのが難しい時代である。紙に書かれた肉筆の文字を見ることも少なくなった。毎日ポストに投函される郵便物を見ても、そのほとんどは印刷物だし、当然、宛名もプリントアウトだ。紙の手帳を持たないぼくは、メモやスケジュールの管理にはパソコンや携帯電話を使うため、自分の文字を紙の上に記すこともほとんどない。記者会見場で受け取った配布資料にちょっとしたメモ書きをすることもあるが、紙の資料を破棄するときに、書き込んだメモまで捨ててしまうことになるので、できるだけ、パソコンでメモをとるようにしている。何らかの理由で紙の資料を保存しなければならない場合は、迷わずPFUのScanSnapでPDF化する。

 ぼくの場合は極端にしても、この傾向が加速していくのは間違いない。たとえば将来には、小学生でさえ、PowerPointでのプレゼンによる授業を受け、プリントアウトされた配布資料を受け取り、ノートはTablet PCのパネルに電磁ペンで記入、Webのインターフェイスで学期末試験を受けるようになるかもしれない。デジタル化の介在しないものには、博物館や美術館、ギャラリーでしかお目にかかれなくなってしまう可能性もある。

 そんな時代がやってきても、きっと鉛筆やボールペン、紙のノートは売られ続けているだろう。でも、フィルムはその時代に容易に入手できるのだろうか。何よりも、人々はフィルムを必要としているのだろうか。それなりの贅沢品になるのは仕方がないにしても、フィルムなんて無用の長物といった時代にならないことを祈りたい。デジタル化が息の根を止める対象は少ない方がいいに決まっている。その寛容さが豊かな暮らしを支える。

□関連記事
【1月19日】コニカミノルタ、カメラ/フォト事業を3月で終了(DC)
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/dslr/2006/01/19/3043.html

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(2006年1月27日)

[Reported by 山田祥平]


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